「反転授業」について

最近ICTの教育利用やデジタル教科書のサイトで「反転授業」という言葉をよく目にするようになった。しかし私はそれをとても危惧している。

ウィキペディアによれば,反転授業とは「ブレンド型学習の形態のひとつで、生徒たちは新たな学習内容を、通常は自宅でビデオ授業を視聴して予習し、教室では講義は行わず、逆に従来であれば宿題とされていた課題について、教師が個々の生徒に合わせた指導を与えたり、生徒が他の生徒と協働しながら取り組む形態の授業である。」とある。(詳しくは「Wikipedia 反転授業」を参照)。

しかし私は次の点で不安を感じている。『これまで外国の学習方法が日本で成功した例がない』日本で過去に成功した授業スタイルのほとんどは,日本人が考え出したものである。学校文化が異なったところで考え出された学習方法は,日本ではあまりうまく定着していない。また,輸入されたとしても,その学習方法を支えるすべての条件が整わないとうまくいかないのは明らかである。

日本人はいつでもいいとこ取りがうまいが,この教育だけはそうはいかない。必ず失敗するであろうと私は見ている。『反転授業を成立させる条件』推進派の人々は,おそらくタブレットが普及して学習でも家庭でも動画を見ることができるようになると思っているだろうが,果たして本当だろうか。

現在でさえ,学校のPCは設置率が100%,一人1台にはなっていない。仮にPC1台でタブレットが3台買えたとしても,それが全国に広く普及するのは至難の業であろう。本来学校で使うべき図書費が土木関連に使われている自治体もあるぐらいである(2008年,共同通信の報道)。いつのことになるかは見当もつかない。

そして最も実現性の可能性が低いと思っているのが学習方法である。子どもは学校だから仕方なく学習のビデオを見ている。自宅でそのようなビデオを何十分も見ていられるとはとても考えられない。一日10分のプリント1枚でも学習習慣の身についていない子どもが,そのような無味乾燥な学習を続けていくことができるだろうか。

現在,大学で盛んに行われているオンライン学習は,大人や学生向きである。学習習慣が身についていて,学習の目的が相当明確で学習意欲も意識も高い。つまり,自学自習が可能なのである。子どもは指導者から何らかの働きかけがあり,友達同士の会話,学習環境があり,そこに身を置いているからこそ学習するのである。先生に褒められ,友達と関わりながら学ぶ。それが学習意欲の源泉である。子どもの予習が可能ならば,教科書を使った予習中心の学習であっても,すでに成り立っていても不思議ではない。現在のような紙の教科書とほとんど差がないようなコンテンツであれば,なおさらのことタブレットで学習するありがたみは見いだすことはできない。

『これまでの教育工学の歴史を振り返ってみて』戦後から現代まで実に多くの教具が考案され,教室に持ち込まれた。幻灯機,スライド,映写機,8ミリ,ラジオ,カセット,ビデオ,OHP。そしてその各々の時代に「~が教育を大きく変える」ともてはやされてきた。テレビなどはそのよい例だろう。しかしどうだろうか。それぞれの機器が劇的に日本の教育を変えただろうか。そのようなことは全くない。

依然として学校教育を支えているのは,教師と子どもが関わり合って問いかけ,応答を中心とする授業である。話を元に戻すと,今は新しい機器,タブレット,そして目新しい反転授業という言葉に浮き足立ち惑わされているに過ぎない。よいところを見るのも大事だが,それに付随する欠点もよく考えてみなければならない。「光が強ければ,それだけできる影も濃くなる」ことを忘れてはならないだろう。

ここ数年ICTの展示会を訪れているが,そこに置かれている多くのものは,ビデオオンデマンド,双方向通信,大規模で高額なテレビ会議システムである。私はそれを見るたびに,いつもむなしさを感じる。それはいくら機器が発達し通信でつながれていても,それを写すカメラやディスプレイの前に学習意欲がある ”人” がいなければ何にもならないからである。重要なのは,高性能の機器ではなく,いかに学習者に学習意欲を持たせるかということなのである。


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